mizuito-tsumugi

〜 日 々 を 織 る 〜

絡まった言葉をほどいて、紡いで、心をほどく

心にたまった言葉の墓場。

率直に言えば、そういう場としてここを開いた。

 

誰にも言えない、言うべきではないこと。

我慢し続けて喉から溢れそうになっても噛み殺してきた言葉たち。

友達になんて言えない。

まだ会社の同僚の方が話せる。けど、ほんの一部だけ。

言われたってどうしようもないし、受け止め切れないのが分かっている。

逆の立場なら、ランチで雑談する程度ならともかく、深刻な話をされても

「どうしろと?」って思う。どうもできないしね。

子供の受験とかなら、お守り渡したり愚痴を聞くくらいできるけど。

 

だから、ちょっと無責任に吐き出してみようと思った。

誰に対してということもなく。

かといって隠すわけでもなく。

 

と言うのも、飲み込んで抱えている言葉は、叫びは、おそらく

私だけではなくて、同じようにもがいている人がいるんじゃないかと思うから。

一方的でも、「同じ人がいるんだな」と思えるだけで心強くなれる。

少なくとも私は、周囲には同じような境遇の人がいなくても、

ネットという仮想の世界で知らない人でも、孤独は軽減できる。

 

特に「シングル介護」は孤独だ。

兄弟姉妹がいてもシングル介護の人もいるだろうし、

私のように一人っ子で、選択の余地などない人もいる。

身近に助けてくれる人もなく、相談する相手もなく、

頼れと言われるのは地域包括センターなどの赤の他人。

いきなり腹を割って話せるわけもない。

家庭の細かい事情を理解してもらえるわけもないし、話したくない。

仕事で見ている人にとっては、瑣末み見えることは流すべきことで

自分が思うカテゴリに分類してマニュアル対応することが「正」なんだろう。

ソフトウェアで個別ニーズごとに開発してられるか!っていうのと

多分同じ感覚なんだろうな。

個別注文承れません、やるなら相当の対価貰うぞ、っていう。

 

ただでさえ親のプライドが高く、自分が認知症だと疑うことも認められない人は

三者に入ってもらうこと自体難しく、病院なり何なり関わらせようとして

親子関係が拗れにこじれていく。

でも、シングル介護は本当に逃げ場がないので、

三者に入ってもらう以外に助けてもらう方法はない。

親との関係と自分の限界。

それを常に天秤にかけては、まだ自分が頑張ることを選ぶ。

 

まぁ、正直、仕事しながら親を見て、信頼できるかも分からない第三者

相談にいく余裕というか元気がないというのが本音でもあるけどね。

実はブチギレた勢いで地域包括センターに電話したことがあるんだけど、

何度かリダイヤルしたけど誰も出なかった。ので、そのまま、もういいやって。

 

どんな情報を漁っても「介護離職だけはするな」と書いてある。

同居済みなので、親元にいくために離職または転職しなければならない

ということはないのが救い。

出勤している時は確かに気がまぎれる。同僚との雑談やランチも楽しい。

通勤で外の空気に触れるのもホッとする。

以前は通勤が嫌で嫌で仕方がなかったのに、今や出勤日にウキウキするくらい。

昨今の働き方改革のおかげで週の半分くらいは在宅勤務をしているけど、

母が明らかな認知症となるまでは毎日100%在宅でもいいのに、くらいに思っていた。

それが今や、在宅は楽は楽だけど、24時間母を見ているという状況が連続すると

精神的に一人で追い詰められていって、キツくなるという。

たとえ母から電話攻撃が来ようと、留守電の嵐であろうと、外に出たい。

どうせ、帰宅する頃には電話したことさえ忘れているしね。。

妄想や幻視は、私がいてもいなくても起きてるし。

在宅勤務と在宅介護が同一家屋で並行すると、在宅勤務の前提である

「勤務体制の確保」が本当に大変!

平気で部屋に入ってこようとしたり、話しかけてきたり、TPOの判断が

できなくなっているから本当に自由。

部屋の入り口に勤務中ボードをかけて、入室禁止、話しかけ禁止と書いているけど

日本語で大きく書いているのに、ほとんど無視。

上司が理解してくれているから助かってるようなものの、

上司が変わったり他社だったら大変だったと思う。そこは心から感謝。

 

まだまだ体は元気で、自我も強くて、難はありつつも買い物も行けて

時々は洗濯もして、自分のことはある程度まで正誤はともかくできるので

目を離せるパターンと離せないパターンと。

 

でもまずは昼夜逆転をどうにかして、夜中から朝にかけて1時間ごとに

部屋のドアを開けて話しかけて起こすのをやめてほしい。。

マトモに睡眠が取れなくて、イライラして怒鳴っちゃって、喉がガラガラ。

ストレスで微熱が下がらず元々持っている偏頭痛も頻発。

 

穏やかになれるものならなりたいけど感情は絡まるばかり、

実の母と娘というのは、それも一人っ子ともなれば、

関係性が複雑で自分ごとながら距離感が近すぎて面倒なもんです。

距離が近いからといって仲がいいわけでもないのが、母娘。

きっとこれが姑とか他人であれば、もっとビジネスライクに

心を切り離して穏やかに、多少のストレスはありつつも冷静に、対処できてるかと。

 

親子って、愛だけじゃない。

そして介護は、愛だけじゃできない。

たぶん、愛がない方が優しくできる。

本気で傷つけられることがないから。

自分で自分を責めて傷つくこともないから。

 

じゃあ、介護で苦しんでいる人の根底にあるのがみんな愛かといえば、違う。

本当に憎しみしかない関係の上にある人もいるだろうし、

すでに諦念の境地に至れている人もいると思う。

親子の関係がその数だけあるように、

介護の苦しみも本当はその数だけパターンがあると思う。

だけど近い人はきっといるから。

「辛い」「苦しい」「逃げたい」「そんな自分に自己嫌悪」

「早く死んで欲しい」「自分が死にたい」「いつになったら楽になれるの」

「介護に追われて、私の人生は何のため」「介護が終わる頃には自分の人生も終わる」

どこまで重なるかは分からないけど、どれかはきっと同じ思い。

 

親に対してそんなことを思うなんて!

なんていう人もいるだろう。そう言える人は幸せだ。

思わなくてもいい人生を歩めているんだから。

だけど、どうかそう思ってしまう人を追い詰めないで欲しい。

想像してみて。

窃盗犯あるいは詐欺師だなどと毎日まいにち自分のことを責め続けてくる人と

24時間365日顔を突き合わせていなくてはならないとしたら。

それが、自分が信頼し頼りにしていた人だったら。

何を言い返しても聞かない、正論は通じない、場合によっては周囲に言いふらす。

そんなことをされて、何も思わないでいられるだろうか?

自分の精神と時間と社会生活を犠牲にしてでも過去の相手に報いようとしているのに。

悔しくて悲しくて涙が溢れても、それさえ嫌味だと責められる。

 

追い詰められた大抵の人は、「もういっそ死んで欲しい」と思うと同時に

「自分がいなくなりたい」「死んで楽になりたい」とも思っている。

相手が先か自分が先か。

会社のように辞めることもできない。親を捨てれば保護遺棄として罰せられる。

施設に入れるには運と莫大なお金が必要。

親の命か自分の命か。

親の人生か自分の人生か。

既に配偶者や子供を持つ人はそちらとの両立が問題だし、

シングル介護者にとっては結婚・子供を持つこと、そのものの諦め。

ふと健康そうな高齢者を見た時、自分の人生の終わりを思った時、

途轍もない虚しさが湧いてきて涙が止まらなくなる。

「なぜ、うちが。何で私が」

最も意味のない、けれど誰もが思うであろう呪いの言葉。

 

認知症になっても意外と長生きする人は多いと思う。

とある親と同世代の知人のお姑さんは若年性認知症になり、今100歳近いから、

既に何十年と介護生活が続いている。

そんな終わりが見えないものなのだ、介護というのは。

人間、ランニングでも仕事でも、ゴールや納期という「終わり」が見えているから

頑張ることができるのだと思う。

それが、ゴールが霞の先でどこにあるのか分からないまま、ひらすら全力で

走り続けなければならないとしたら、途中で不安になり絶望しないだろうか。

このまま走って大丈夫なのだろうか、ゴールはあるのだろうか。

ゴールした時に自分はどうなっているんだろうか、と。

 

私も全くゴールは見えない。

むしろ、まだスタートから間もない方だろう。

 

少しでも心を落ち着かせるために、忘れないために、

無理のない自分のペースで、ここに言葉をためていこう。